【投稿】「哲学プラクティスにおける安心/安全」を問う、とはどういうことか?
~哲学プラクティス連絡会第7回大会の開催に寄せて~
「安心/安全」を問うことは恐ろしい。
それは、それ自身を論題として設定可能なのだという「自己反省」の構えを取りつつ、その語によって祝福されている者とそうではない者を序列化する機制である。
一体それは「誰の」安心であり、「誰の」安全であるのか――いや、そのような問いかけですら、対話を始めるには不十分だろう。
私たちが「誰の?」と疑問符を投げかけてみようとするとき。
それは即ち、既に「選ばれることのなかった"誰か"」が、序列のもとに「自己」として形成を遂げた後に留まるものだ。
秩序に機先を制せられた者は、むしろまず自身の資格を疑うべきではないのか?
(序列の帝国に後れをとったその後で、哲学に何か言葉を発することが許されるのか?)
そもそも一体、"誰が"「安心/安全」を問うことが出来るというのか?
私が「哲学プラクティスにおける安心/安全」というテーマ(下記詳述)を警戒せざるを得ないのは、それが上下左右をひっくり返すような「論争的」テーマであるからではない。
既に複数の具体的事例から明らかであると思うが、私たちが今もっとも警戒するべきは、哲学対話に "潜む" 危険性ではないのだ。
むしろ危険は、哲学対話なる空間を設置しようとする "挙動" にこそ潜んでいる。
そして現実には、それは哲学対話を「試みる者」の問題として考えるよりないだろう。
一体私たちは、なぜこうも無邪気に何事かの前提に居直ったままに、何かを「問う」ことが出来ると考えてしまうのか。
哲学プラクティスの抱えるこうした問題について、私たちは真摯に向き合い、問題の解決策を考えるべきではないのか?
間もなく開催される、2021年哲学プラクティス連絡会第7回大会。
今年は「新しい試みとしてテーマ発表の枠」が設けられ、「哲学プラクティスにおける安心/安全」がテーマとされるている。(注1)
公開されたプログラム集を眺めていた私の目に、「ノンバーナリーって何?=性表現を語る時のあなたと社会の問題について」と題された企画の概要文が目に止まった。(注2)
この概要文においては冒頭、
>本ワークショップはセクシャリティーの一つである“ノンバイナリー“について考えるオンライン上の『哲学カフェ』です。
と書かれている。
私はもうこの一文を見て、その場が「安心/安全」を問うことができる場ではないだろうと思わずにはいられなかった。
そしていつもいつも本当に腹立たしいことだが、特に自己のセクシャル・マイノリティ性を感じている者ならば、その場がその人にとって全く安全な場所ではないことを察知する必要があるだろう。
そもそも「ノンバイナリー」とは、男女二元・強制異性愛社会たるこの社会体制において、「男/女」という性別区分に属さない者を指す概念だ。
性とは「男/女」の別のことを指すという基軸を維持し続ける社会において、ノンバイナリーで生きるということは、文字通り否定の接頭辞を身に着けて生きるということに他ならない。
その意味でノンバイナリーとは、「あらかじめ否定された」性である。
それは常に、否定の契機なしには存在し得ない在り方といえる。
さて、そのような存在たるノンバイナリーを、現下の社会において「セクシャリティーの一つ」として「考える」ことは、(誰が)一体どのようにして可能だろうか?
概要文は項目を改めたうえで終盤、再び冒頭文へと接続し、
>#ノンバイナリーについての問いを深めていけたら幸いです。
と結ばれる。
ノンバイナリーが「セクシャリティーの一つ」であると言うのであれば、例えばそれを「男/女」と入れ替えて問うことも出来るだろうか?
「本ワークショップはセクシャリティーの一つである“女性“ について考えるオンライン上の『哲学カフェ』です。」
「今の時代ならではの事象を題材に参加者の方々とシェアしながら #女性 についての問いを深めていけたら幸いです。」
更に、この概要文において企画者は、既に閉幕した東京五輪について次のような認識を示している。
>また、今夏は『ジェンダー平等/多様性と調和』を大会テーマに掲げる”東京五輪2020”が開催され、性的マイノリティーを自認する選手の参加が過去最高の180名を越えたと聞きます。この結果はスポーツを通じた連帯と協働によって“安心/安全”の場が少なからず確保されたことを意味するのではないでしょうか。(注2)
上記の記述を前提に今、仮に総参加選手数を11092と考えると(注3)、「セクシャル・"マジョリティー"」は10912名となる。
10912名のセクシャル・マジョリティーの参加の結果、「スポーツを通じた連帯と協働によって“安心/安全”の場が少なからず確保された」!?
そもそもこうした「集計数」と、「スポーツを通じた連帯と協働によって“安心/安全”の場が少なからず確保され」たかどうかということは、何か因果関係のもとに語れるような事柄だろうか?
一体どうして、とりわけ「セクシャル・マイノリティー」だけが集計の対象となり、対話のテーマとされるのか?
なぜ人は「ノンバイナリー」について「問いを深める」対象として見出すのか?
そこで認識/対象化/観察/分析、つまり統治されるものは一体何であり、誰なのか?
その場は自らの支配と抑圧について問われる可能性について、開かれていると言えるのか?
この概要文の作成者は、まだ問いのとば口にすら立っていないと、私は思う。
釘を刺すように述べるが、私は「哲学プラクティスにおける安心/安全」をテーマにすることそのものに反対したいのではない。
しかし、それがテーマとして俎上に載せられた矢先、このような現実が露呈するのである。
これは「哲学プラクティス」なる実践において、避けがたく生起せざるを得ない問題なのだろうか?
少なくとも今、それを「どのように避けるのか」(=How to)という問題として考えることは、適切ではないのではないか?
今や私たちは、"誰が"「「安心/安全」な哲学プラクティスを語ることが出来るのか、という地点まで遡って対策を考える必要があるのではないだろうか?
「哲学プラクティス」なるものに該当する実践は、世に数多存在するだろう。
そのいちいちを全て把握することなど不可能であるとはいえ、既にこのように私たちの近傍に問題は――あるいは私たち "自身が" 問題として――生起しているのである。
「哲学プラクティス」の実践者 "そのもの" による差別と偏見の生産・流布という問題に、私たちは真剣に取り組むべきではないのか?
看過するならば、「哲学プラクティス」という語そのものすらその、責を問われることになるだろうと思わずにはいられない。
私たちは、私たち自身を、もっと恐れなければいけない。
汝自身を知ることを急ぐよりも、もっとずっと前に。
文責
波止場てつがくカフェ
しばたはる
注1
下記URLに格納されたファイルの「はじめに」のページを参照。
哲学プラクティス連絡会第7回大会プログラム集
注2
企画の概要文は、注1にあるものと同様のファイルに収められている。
GEEK LOVE PROJECT <VOL.2>
アート×哲学=対話で考える「哲学カフェ」
“ノンバーナリーって何? ” = 性表現を語る時の私とあなたと社会の間について =―
映画「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:||」にみるジェンダー的視点から
注3
東京オリンピックの参加選手数の見積もるにあたっては、下記の報道を参考とした。
読売新聞(2021/06/30)
【独自】東京五輪、選手1万1092人参加見込み…日本代表580人前後か