“Jetty” dialogue cafe

 【投稿】「哲学プラクティスにおける安心/安全」を問う、とはどういうことか?

~哲学プラクティス連絡会第7回大会の開催に寄せて~


 
「安心/安全」を問うことは恐ろしい。

それは、それ自身を論題として設定可能なのだという「自己反省」の構えを取りつつ、その語によって祝福されている者とそうではない者を序列化する機制である。

一体それは「誰の」安心であり、「誰の」安全であるのか――いや、そのような問いかけですら、対話を始めるには不十分だろう。

私たちが「誰の?」と疑問符を投げかけてみようとするとき。

それは即ち、既に「選ばれることのなかった"誰か"」が、序列のもとに「自己」として形成を遂げた後に留まるものだ。

秩序に機先を制せられた者は、むしろまず自身の資格を疑うべきではないのか?

(序列の帝国に後れをとったその後で、哲学に何か言葉を発することが許されるのか?)

そもそも一体、"誰が"「安心/安全」を問うことが出来るというのか?


私が「哲学プラクティスにおける安心/安全」というテーマ(下記詳述)を警戒せざるを得ないのは、それが上下左右をひっくり返すような「論争的」テーマであるからではない。

既に複数の具体的事例から明らかであると思うが、私たちが今もっとも警戒するべきは、哲学対話に "潜む" 危険性ではないのだ。

むしろ危険は、哲学対話なる空間を設置しようとする "挙動" にこそ潜んでいる。

そして現実には、それは哲学対話を「試みる者」の問題として考えるよりないだろう。

一体私たちは、なぜこうも無邪気に何事かの前提に居直ったままに、何かを「問う」ことが出来ると考えてしまうのか。

哲学プラクティスの抱えるこうした問題について、私たちは真摯に向き合い、問題の解決策を考えるべきではないのか?


間もなく開催される、2021年哲学プラクティス連絡会第7回大会

今年は「新しい試みとしてテーマ発表の枠」が設けられ、「哲学プラクティスにおける安心/安全」がテーマとされるている。(注1

公開されたプログラム集を眺めていた私の目に、「ノンバーナリーって何?=性表現を語る時のあなたと社会の問題について」と題された企画の概要文が目に止まった。(注2

この概要文においては冒頭、
 

>本ワークショップはセクシャリティーの一つである“ノンバイナリー“について考えるオンライン上の『哲学カフェ』です。

と書かれている。

私はもうこの一文を見て、その場が「安心/安全」を問うことができる場ではないだろうと思わずにはいられなかった。

そしていつもいつも本当に腹立たしいことだが、特に自己のセクシャル・マイノリティ性を感じている者ならば、その場がその人にとって全く安全な場所ではないことを察知する必要があるだろう。

そもそも「ノンバイナリー」とは、男女二元・強制異性愛社会たるこの社会体制において、「男/女」という性別区分に属さない者を指す概念だ。

性とは「男/女」の別のことを指すという基軸を維持し続ける社会において、ノンバイナリーで生きるということは、文字通り否定の接頭辞を身に着けて生きるということに他ならない。

その意味でノンバイナリーとは、「あらかじめ否定された」性である。

それは常に、否定の契機なしには存在し得ない在り方といえる。

さて、そのような存在たるノンバイナリーを、現下の社会において「セクシャリティーの一つ」として「考える」ことは、(誰が)一体どのようにして可能だろうか?


概要文は項目を改めたうえで終盤、再び冒頭文へと接続し、

 

>#ノンバイナリーについての問いを深めていけたら幸いです。

 

と結ばれる。

ノンバイナリーが「セクシャリティーの一つ」であると言うのであれば、例えばそれを「男/女」と入れ替えて問うことも出来るだろうか?

 

「本ワークショップはセクシャリティーの一つである“女性“ について考えるオンライン上の『哲学カフェ』です。」
 

「今の時代ならではの事象を題材に参加者の方々とシェアしながら #女性 についての問いを深めていけたら幸いです。」


更に、この概要文において企画者は、既に閉幕した東京五輪について次のような認識を示している。
 

>また、今夏は『ジェンダー平等/多様性と調和』を大会テーマに掲げる”東京五輪2020”が開催され、性的マイノリティーを自認する選手の参加が過去最高の180名を越えたと聞きます。この結果はスポーツを通じた連帯と協働によって“安心/安全”の場が少なからず確保されたことを意味するのではないでしょうか。注2


上記の記述を前提に今、仮に総参加選手数を11092と考えると(注3)、「セクシャル・"マジョリティー"」は10912名となる。

10912名のセクシャル・マジョリティーの参加の結果、「スポーツを通じた連帯と協働によって“安心/安全”の場が少なからず確保された」!?

そもそもこうした「集計数」と、「スポーツを通じた連帯と協働によって“安心/安全”の場が少なからず確保され」たかどうかということは、何か因果関係のもとに語れるような事柄だろうか?

一体どうして、とりわけ「セクシャル・マイノリティー」だけが集計の対象となり、対話のテーマとされるのか?

なぜ人は「ノンバイナリー」について「問いを深める」対象として見出すのか?

そこで認識/対象化/観察/分析、つまり統治されるものは一体何であり、誰なのか?

その場は自らの支配と抑圧について問われる可能性について、開かれていると言えるのか?

この概要文の作成者は、まだ問いのとば口にすら立っていないと、私は思う。


釘を刺すように述べるが、私は「哲学プラクティスにおける安心/安全」をテーマにすることそのものに反対したいのではない。

しかし、それがテーマとして俎上に載せられた矢先、このような現実が露呈するのである。

これは「哲学プラクティス」なる実践において、避けがたく生起せざるを得ない問題なのだろうか?

少なくとも今、それを「どのように避けるのか」(=How to)という問題として考えることは、適切ではないのではないか?

今や私たちは、"誰が"「「安心/安全」な哲学プラクティスを語ることが出来るのか、という地点まで遡って対策を考える必要があるのではないだろうか?


「哲学プラクティス」なるものに該当する実践は、世に数多存在するだろう。

そのいちいちを全て把握することなど不可能であるとはいえ、既にこのように私たちの近傍に問題は――あるいは私たち "自身が" 問題として――生起しているのである。

「哲学プラクティス」の実践者 "そのもの" による差別と偏見の生産・流布という問題に、私たちは真剣に取り組むべきではないのか?

看過するならば、「哲学プラクティス」という語そのものすらその、責を問われることになるだろうと思わずにはいられない。

私たちは、私たち自身を、もっと恐れなければいけない。

汝自身を知ることを急ぐよりも、もっとずっと前に。


文責
波止場てつがくカフェ
しばたはる



注1
下記URLに格納されたファイルの「はじめに」のページを参照。
哲学プラクティス連絡会第7回大会プログラム集


注2
企画の概要文は、注1にあるものと同様のファイルに収められている。
GEEK LOVE PROJECT <VOL.2>
アート×哲学=対話で考える「哲学カフェ」
“ノンバーナリーって何? ” = 性表現を語る時の私とあなたと社会の間について =―
映画「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:||」にみるジェンダー的視点から


注3 

東京オリンピックの参加選手数の見積もるにあたっては、下記の報道を参考とした。
読売新聞(2021/06/30)
【独自】東京五輪、選手1万1092人参加見込み…日本代表580人前後か

 

 

【投稿】「死」に関する、ある哲学対話での一件について~その2~

関係図 1、「How to Get to 哲学対話 ?」・3月29日 哲学対話「最高の死をデザインしたいか?」 開催「高齢で寝たきりになりチューブだらけになるならば、 モルヒネとか使って安楽死がしたい」(主催者)   ⇒「緩和ケアと安楽死を混同しているのではないか?」(Aさん)  ・4月29日 謝罪文発表 2、「こまば哲学カフェ」・4月3日 哲学対話 「最高の死をデザインしたいか?」 開催・6月13日 哲学対話「誰にもわからない悲しみはあるか?」開催(予定) 「こまば哲学カフェ」に対して協力 P4E研究会、東大・共生のための国際哲学研究センター 1・2ともに同一アカウントによる告知・管理(Peatix)

前回、私は「How to Get to 哲学対話 ?」主催の哲学対話で起きた問題と、その後の同グループの対応について苦言を述べました。

 

私以外にも、様々な方々から問題解決に向けた働きかけが行われていると聞いていました(※1)ので、状況がよい方向に進展していくことを期待していましたが、しかしその後も、公表された謝罪文は更新されることがないまま、先日、このグループと密接な関係にあると思われる「こまば哲学カフェ」(両者の関係については※2を参照)において、「【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話】 Vol.8:誰にもわからない悲しみはあるか?」と題された哲学対話の企画が開催予定であることを知るに到り、前回述べた苦言では、事態の改善を促すに不十分であると考えるに到りました。

 

以下、「How to Get to 哲学対話?」および、同グループと密接な関係にあると思われる「こまば哲学カフェ」に対して批判を述べます。

 

解決に向けて、関係者の皆さんが真摯に問題に取り組むことを訴えます。

 

 

1、主催者としての責任を放棄する「改善策」

問題の告発を受けて4月29日に発表された謝罪文は、率直に言って経緯が不明な点が多く、意味を理解しかねる箇所が多くあるものでした。

 

中でも、以下の部分は特に問題だと感じました。

 

>2:知識レベルの高い内容、センシティブな話題が出た場合の対応
・緊急サインで話を一旦止める。介入する。
・その内容について、この場で対話を継続した場合、ファシリテーターの力量にあまるため、発言のコントロールができないが、それでもこのまま話すかどうか選択してもらう。

 

例えば今回問題になっている事態が、まさに「センシティブな話題」に該当するのだと思いますが、この改善策に拠るならば、参加者は、たとえファシリテータ―による介入があったところで、それに拘わることなく差別的発言を続行することが可能になってしまいます。

 

これは哲学対話という場における主催者の責任を、全く放棄する行為に等しいものではないでしょうか?(※3

 

これでは今後、同種の問題が発生することを防止することはできないと思います。

 

 

2、どのような「責任」が問われているのか?

またそもそも今回の一件は、上記の改善策が想定するような、企画参加者によって引き起こされた事件ではなく、他でもない主催者であるSHIOKOさんの発言によって、直接に引き起こされたものではないのですか?(※4

 

にも拘わらず、謝罪文では、今回の問題が引き起こされた原因について、


>センシティブな問題に接した時の私の対応に問題がある

>「私は何も知らない」という姿勢を大切にしてはいますが、その無知の取り扱い方を誤っていたと反省しています。

 

というように認識が示されるだけで、どうして

 

>人を酷く傷つけてしま

 

うような発言がなされてしまったのか、判然としません。

 

また問題は、当日発せられた発言に限定されるものではないと思います。

 

前回記事でも指摘しましたが、そもそもどうして「最高の死をデザインしたいか?」などというテーマが採択されてしまったのか。

 

問題とされている発言は、今回の催しの企画段階に遡って、その原因が探られるべきではないのでしょうか?

 

主宰者のSHIOKOさんが「死」についてどのような関心をお持ちなのかは兎も角、哲学対話の主催者であるならば、私たちが「死」について対等に語ることができるために一体何が必要で、何に気を付けるべきなのか、腐心して考えなくてはならないはずです。

 

にも拘わらず、謝罪文には、そうした主体的省察は全く示されていません。

 

ここには、哲学対話の主催者として果たすべき責任を軽視する姿勢が見て取れると、私は思います。

 

また、このように、本来明かされるべき、問題を発生せしめた原因が示されることがない一方、謝罪と無内容な改善策が示されることによって、この謝罪文の性格は全体として極めて曖昧、かつ趣旨の不明なものになってしまっていると思います。

 

謝罪文のこうした姿勢は、本来この文書によって回復すべき信頼を損うものになってしまってはいないでしょうか?

 

本件について、「How to Get to 哲学対話?」は一体どのような責任を負っているのか、認識を明確に示すべきだと思います。

 

 

3、"エア安全弁"を設置して企画される「安全な」哲学対話

このうような状態のまま、今回新たに「How to Get to 哲学対話?」と密接な関係のもとにある「こまば哲学カフェ」の哲学対話が開催されようとしています()(※5)。

 

そしてこの企画は、上述した「How to Get to 哲学対話 ?」による「改善策」の下で開催されるものと推察されます。(※6

 

問題についての省察をおろそかにしたまま、誤った改善策のもとで「哲学対話」が開催されるわけですから、同様の事件が再び繰り返される可能性が排除できません。

 

というより現状は、もし仮に問題が発生したとしても、最終的にはファシリテーターが関与「しない」ことが担保されている状態にあるわけです。

 

これは商品にたとえるなら、事故を受けて設置されたのが"エア安全弁"だったというような状態でしょう。

 

実際の安全確保はされていないのに、事態は「改善」されたと発表されているわけですから、現在の状況は実に奇妙なものであると言わざるを得ません。


一方、開催が予定されている「こまば哲学カフェ」の案内文には、

 

>普段、周りを気遣って使えない言葉や表現も、ルールに守られた哲学対話の場では安全に発言できます。

と記載があります。

 

>ファシリテーターの力量にあまるため、発言のコントロールができないが、それでもこのまま話すかどうか選択してもらう。

 

ことが緊急時のマニュアルとして定められている場を、どうして安全だと言うことができるでしょうか?

 

また何より、今回の事件の被害者であるAさん(仮名)が発表されたテクスト※7)を読む限り、示された謝罪は全く受け入れられていないと思います。

 

予定されている「こまば哲学カフェ」の案内文にも目を通しましたが、「誰にもわからない悲しみはあるか?」とのフレーズは、果たしてAさんにはどのように聞こえるか。

 

私はとても心配な気持ちになります。

 

How to Get to 哲学対話 ?」および「こまば哲学カフェ」が今優先すべきなのは、まずはAさんへの謝罪であって、そのための問題の真摯な検証です。

 

少なくとも、既に示されている誤った改善策のもとで、新たに哲学対話をはじめるべきではないと、私は考えます。

 

How to Get to 哲学対話 ?」および「こまば哲学カフェ」には、多くの協力者が関わっていると思います。(※8

 

関係者の皆さんが今一度考えを見直し、今般の問題を受けて失われてしまっている信頼の回復に努められることを、切に訴えます。

 

 

文責
波止場てつがくカフェ
しばたはる

 

 

※1  今回の問題を受けて5月17日、関係者の働きかけにより、永く日本における哲学対話の活動を牽引してきた「カフェフィロ」より声明が、正会員一致で発表された。またそれとは別に、5月14日には有志によって、音声SNSを介して、Aさんを招き今回の問題について話を聞く催しがあったという。

 

 

※2 問題となっている「How to Get to 哲学対話 ?」主催の「【哲学対話×Dabel】Vol.41テーマ:最高の死をデザインしたいか?」(3月29日開催)から5日後の4月3日、全く同様のテーマにて、「こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話】 Vol.6:最高の死をデザインしたいか?」が開催されている。

両者の関係について説明はなく、今もって不明なままだが、以下の点から両者の密接な関係が窺い知ることができ、二者は一体の体制のもとで運営されている可能性もあると推察される。

なお、本稿で取り上げた「こまば哲学カフェ」や「【哲学対話×Dabel】」以外にも、Peatixアカウント「How to Get to 哲学対話 ?」では様々な哲学対話の企画が告知・募集されているが、やはりそれぞれがどのような関係にあるのか、全容は不明である。

  1. どちらもイベント告知サービスPeatix上の同一アカウント「How to Get to 哲学対話 ?」の管理するページで告知を行っている
  2. 上記アカウントには「SHIOKO IDE」の名称が記載されていることから、本アカウントは「How to Get to 哲学対話?」主宰のSHIOKOであることが推測される
  3. 「こまば哲学カフェ」の複数の催事告知ページに、「世話役:いでしおこ(How to Get to哲学対話?)」と掲載があり、この人物が「How to Get to 哲学対話 ?」主宰のSHIOKOであることが推測される

 

 

※3 今詳しく検討することは出来ないが、この謝罪文には、「無知」をめぐって考えてみるべき興味深い問題の影がほのめいているように思う。

謝罪文には

>「私は何も知らない」という姿勢を大切にしてはいますが、その無知の取り扱い方を誤っていたと反省しています。

>「分からない者同士の対話である」ことを前提として話をはじめよう

>「参加者全員の"無知であるがゆえのデリケートさを欠いた発言"などがあります。…」と案内を入れる


などと記載があるが、そもそも「「分からない者」「無知」である者が、「センシティブな話題」が提出され、かつ「ファシリテーターの力量にあまる」事態に陥った場合に、果たしてどのように行動するべきなのか、判断することが可能だろうか?

また、ファシリテーターも同じく「分からない者」「無知」である者なのだとしたのなら、そもそもそれが「センシティブな話題」であるかどうかを認識することなど出来ないのではないだろか?

一体、ここで提出されている「無知」「分からない」というものは、呼びかけられる「哲学対話」とどのような関係にあるのだろうか?

 

 

※4 謝罪文から確定的にわかる事実は、主宰者のSHIOKOに向けて、Aより「緩和ケアと安楽死を混同しているのではないか?」との指摘があったということだけだ。

SHIOKOは「明確な記憶がない」と断定を避けつつ、しかし自身がそのような考えを常日頃から持っているため、当日そのように発言することを「想像できる」と述べるに留まっている。

謝罪の言葉が述べられる一方で、このように事実関係の確定が不十分である点も、謝罪文の趣旨を不明なものとしてしまっているように思われる。

一方、6月1日、Aはブログを通じて本件について文章を発表した。


Aは、問題の発言者を「某氏」と表記しつつ、会場にて「高齢で寝たきりになりチューブだらけになるならば、モルヒネとか使って安楽死がしたい」との発言があったと述べている。

 

 

※5 「こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話 】 Vol.8:誰にもわからない悲しみはあるか?」(6月13日開催予定)

 

 

※6 事件に対する改善策が発表された4月29日以降に開催された「こまばてつがくカフェ」の複数の告知ページに、発表された改善策の一部と全く同じ文が、注意書きとして掲載されている。

 

 

※7 ブログ「日々紡いだモノたち



※8 「こまば哲学カフェ」には「協力」としてP4E(Philosophy for Everyone)研究会東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属共生のための国際哲学研究センター(UTCP)の名前が記載されている。

 

 

【投稿】「死」に関する、ある哲学対話での一件について~その1~

画像はTwitterアカウント「How to Get to 哲学対話 ?」より

 

活動停止中なんですけど、(たぶん)とっくに議論には乗り遅れてしまってますけど、あと他所様のことには基本口出ししたりしない性分なんですけど、あんまりだと思うので一言だけ。

ある哲学対話の催しで起きたという事件。


【哲学対話×Dabel】Vol.41 テーマ:最高の死をデザインしたいか?

ネットでの反応を見ていると、この問題を「哲学対話」一般の方法論の問題として考えようとする向きが、大勢のように感じています。

確かにそうした議論が必要であると強く感じるところですが、しかしこの企画、そもそも「最高の死をデザインしたいか?」というテーマにて企画され、開催されたわけです。(※1)

こうしたテーマで一般に呼びかけてお話しを始めたら、差別意識の露呈やヘイトスピーチを招くことになるって、そんなの、火を見るより明らかなことではないですか?

「最高の死をデザインしたいか?」

この疑問文に対する回答を文法に従って考えるならば、「はい、デザインしたいです」あるいは「いいえ、デザインしたくありません」という具合になりますよね。

一方、「デザイン」とは、何事か物事に与えられる造形のことでしょう。

この問いかけは人の好悪、選好の問題を問うものであると考えるのが素直な受け取り方だと思います。

つまりこの質問は、ある種の美的感覚に関わることについて訊ねている、と考えるのが妥当なところではないでしょうか。

そしてそのことは、この質問文の主語である「最高の死」という言葉からも明らかだと思います。

「死」を「最高/最低」の両極で序列化させるこの疑問文は、「デザイン」の語と相俟って十中八九、死についての美的な感覚を論じさせるものとして受け取られるでしょう。

実際には、このテーマは美しい死(!)と、そうではない死について話をすることを要求するものとして機能すると言わざるを得ません。

だとすれば、このテーマで哲学対話を行うことは、予期せざる事故のようなものではなくて、当然に予見されるべき、極めて危険な行為であったのではないでしょうか?

しかも、この危険な行為を実際に行った(テーマを受けて、更にそれを補強する発言を行った)のは主催者の SHIOKO さんご本人であったというのに、謝罪文においては、何故ご自身がそのような思考回路に到ってしまったのか、全く考察が述べられていません。

一体 SHIOKO さんは、どうして「最高の死をデザインしたいか?」などというテーマを掲げて哲学対話を行おうと考えたのでしょうか?

問題を指摘された後、当初のご自身の考えは、どのように反省されたのでしょうか?

そのことを切開せずに、本件を総括することなど出来ないのではないかと、わたしは考えます。


それから、この企画とは別に、これと全く同様のテーマでの哲学対話が、過去に「こまば哲学カフェ」という枠組みでも行われていたことを知りました。

 
こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話 】 Vol.6:最高の死をデザインしたいか?

主催者の欄には、どちらも「How to Get to 哲学対話 ? SHIOKO IDE」とありますから、上記一件と同じく、「How to Get to 哲学対話 ?」のSHIOKOさんが関係されたものだと思うのですが、こちらのページには、その他にも様々な人や機関の名前が掲載されています。

こちらの企画では、このような問題は起きなかったのでしょうか?

なんだか、とても心配です。

また、この様に多くの方が関わりながらも、「最高の死をデザインしたいか?」という、極めて危険なテーマにて対話の場を開催することを止められなかったことは、大きな問題ではありませんか?

「こまば哲学カフェ」は、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)やP4E研究会の「協力」でこの企画を行ったと、上記のページには書かれています。

本件について、少なくともUTCPやP4E研究会は、その関与の有無や責任の所在を含めて説明をするべきではないのですか?

「哲学対話」の場における差別やヘイトスピーチの問題を、その方法論一般の問題として考えることは大変重要だと思いますが、今回の事態そのものは、実際はもっと具体的な人々の関与の在り方を見直すことで、より実効的に防止可能であったことではないのでしょうか?

このように苦言を表明したところで、一体誰にこの言葉が届くのかわからないとも感じますが、同様の趣旨での指摘が見受けられなかったこともあり、取り急ぎ問題意識を公にするものです。


文責 しばたはる(波止場てつがくカフェ)


※1 この催しは、「How to Get to 哲学対話」主宰SHIOKOの主催で、「【哲学対話×Dabel】Vol.41 テーマ:最高の死をデザインしたいか?」と題して行われた。なお、実施にあたっては音声通信アプリ「Dabel」を介し、オンライン上で行われたという。

無期限活動休止のご報告

 
 
当会に関心をお寄せ頂いている全ての方へ



この度、当会は活動を無期限休止することといたしました。

理由は、メンバーの海外転居に伴い、会として活動を継続することが難しくなったことによります。

唐突なお報せとお感じの向きもあるものと存じますが、何卒ご承知おき頂きたく、お願い申し上げます。


人と人は、どのようにして対等に話すことができるのか――この問題意識だけが、当会の活動を動機づけてきました。

洪水のように大量の情報が流通する一方で、社会の分断がより一層鋭く察せられる今日。

私たちの問いかけが向かうその先は、霧の向こうに見えなくっていく一方のように感じられます。

ましてや、未だ世界は新型コロナウィルスの脅威の中に。

人と人が接触することそのものが危機となった今、対話を求める活動は、大変困難な状況に陥ってしまっていると言えるでしょう。

このような折に活動休止の判断をせざるを得ないことは、当会としても心苦しい限りです。

どうにか活動を継続できないものか、様々に検討を重ねましたが、残念ながらこのような結論に達せざるを得ませんでした。
 

ご理解いただけるならば幸いです。


なお、当会のwebサイト等やメール窓口につきましては当面の間、閉鎖せずに留めおきます。

当会にご用向きのある方、特にご自身で対話の場を拓くことに関心がある方といった方は、お問い合わせ頂ければ、可能な限りの対応をさせて頂きたいと思っております。


これまでお寄せ頂きましたご厚意に、心から御礼申し上げます。

大変ありがとうございました。


それでは皆さま、またどちらかの「波止場」でお会いしましょう。

霧深い川の向こうに、対話の可能性を託して。

ごきげんよう。

 

2020年9月1日
波止場てつがくカフェ

 


 


 

 

 

【報告】第22回「正しく<恐がる>ことが必要だ」って、なんで?

第22回「正しく<恐がる>ことが必要だ」って、なんで?

日時:2020年3月15日(日)13時~

場所:広びろ青空の下(池袋駅西口至近) 

※新型コロナウィルス感染拡大に伴い事前申し込み制に変更のうえ実施

※防寒のため、途中から屋内会場に移動、再開

第22回(3月15日開催)実施変更のお知らせ

2019新型コロナウイルス(電子顕微鏡での拡大写真。wikipediaより)


新型コロナウィルスの感染拡大を受けまして、当会では、3月15日(日)に開催を企画しておりました第22回波戸場てつがくカフェ(「正しく<恐がる>ことが必要だ」って、なんで?)について、以下のように実施条件を変更の上、開催することと致しました。

 

特に会場は屋外へと変更のうえ、参加は事前申込制とすることとさせて頂きます。

 

参加を予定されていた皆様におかれましては、当初と異なる条件での開催となりますこと大変申し訳ございませんが、是非お申込み・ご参加頂きたく、お願い申し上げます。

 

今般の事態に対して2月26日、日本国政府は「この1、2週間が感染拡大防止に極めて重要である」との認識を示し、「多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請することといたします。」と述べる一方、前日25日に発表した基本方針(※1)に照らして、「現時点で全国一律の自粛要請を行うものではない」と釈明をしたうえで、「地域や企業に対して、イベント等を主催する際には、感染拡大防止の観点から、感染の広がり、会場の状況等を踏まえ、開催の必要性を改めて検討するよう要請する」と述べ、総理大臣による異例の声明(※2)を発表いたしました。

 

当会の催しは、これまでも大変ささやかな規模で開催されて参りましたので、今般、政府が要請の対象としている「大規模な感染リスク」がある催しでないことは明らかです。

 

しかし未だ治療薬がなく、科学的に不明な事柄が数多いという新型コロナウィルスの脅威を考えるに、このような事態においては、当会の活動も政府方針に拘わらず、むしろより謙抑的な姿勢をもって臨む必要があると考えます。

 

一方、私達が生活を送る上での困難はウィルス感染だけに限らないこともまた、明らかな事実です。

 

当会の活動は人の生命に直結するよう類のものではないかもしれませんが、しかし、人が日常の社会関係から離れて互いに対等に話し合うということは、私達の生に必要不可欠な、根本的な欲求として存在していると考えています。

 

ましてや、人の移動が制限され、集まることそのものすら制約されているような現状においては、対話の必要性はむしろ大変に高まっていると考えます。

 

このような諸事情を総合的に考えた結果、実施予定の第22回につきましては、平常の方法で実施することはできないものの、一定の感染予防措置を講じたうえで、中止とすることなく予定通り開催することといたしました。

 

通常の開催とは勝手異なるところがございますので、参加される皆様にはご不便をかけるところもあるかもしれませんが、何卒ご容赦頂きたくお願い申し上げます。

 

なお、会場が屋外となります都合上、当日雨天(荒天)の場合は開催中止とせざるを得ません。

 

当日の天候判断につきましては、twitterにて随時発表して参りますので、必要に応じてご確認頂きますよう、お願い申し上げます。

 

(第22回開催の詳細については、こちらからご確認ください。)

 

よろしくお願い申し上げます。

 

※1 「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」(2月25日)

※2 イベントの開催に関する国民の皆様へのメッセージ(2月26日)

 


第22回「正しく<恐がる>ことが必要だ」って、なんで?





感染が拡大する新型コロナウィルス。

最初の発生確認地である中国・武漢から、瞬く間に世界中に感染が広がりました。

マスクなどの衛生用品の不足。
患者の大量発生によって混乱状態に陥る病院。

感染の危機にさらされながらも、交代や休憩をとることもできない過酷な医療従事者の労働。
軟禁と呼ぶのが適切であるような、人の移動の制限。

「武漢人」「中国人」「東洋人」などという具合に向けられる、差別と偏見に満ちた視線や接遇。

都市が丸ごと封鎖状態にある武漢での混乱は、既に日本でも始まっていると言えるのかもしれません。

一方、ここに至って強調されるのは、例えば「手洗い」の有効性。

目に見えないミクロの世界の脅威に対して、大変に具体的で身近な生活習慣の重要さが、行政当局やメディアによって説かれています。

「科学的事実に基づいた、冷静な対応を」
「正しく<恐がる>ことが必要だ」

確かに「手洗い」や「マスク」は具体的で、ほとんど多くの人が実践できる予防方法だと思いますが…
しかし、それらを行うことが、なぜ「正しく<恐がる>」ことであると言えるのでしょうか?

本当にウィルスとの戦いに、「正しく<恐がる>」ことは必要なのでしょうか?
そもそも「正しく<恐がる>」とは、一体どういうことだと考えればいいのでしょうか?

「手洗い」「マスク」といった具体的実践の背後にそびえる、大切な「心構え」。

それがそもそもどのようなものであるのか、考えてみたいと思います。


チラシ

■日時:2020年3月15日(日)13時~

■場所:アートな感じの広々ラウンジ(池袋駅西口至近)
広びろ青空の下(池袋駅西口至近) 
※変更になりました
 ※【事前申込制】お申込みを頂いた方には具体的な場所をお知らせいたします
※性別や車椅子利用の有無などに関わらず利用できるトイレが施設内にあります
※寒さへの備えを各自お願いいたします
※イスのご提供などはございません。お敷物などが必要な場合は、各自ご持参ください

■参加費:無料(カンパ歓迎)

■その他
雨天 (荒天)の場合は中止と致します(当日の開催の是非については随時twitterにて発信いたしますので、必要に応じてご確認ください)
・当日は飛沫感染予防対策として、参加者の皆様各自の間に2mほどの距離(※)を設置したうえで、簡易メガホンをご用意いたします。必要に応じてご利用ください
 ※ご参考(「問16 濃厚接触とはどのようなことでしょうか?」厚生労働省
・沫感染予防対策として、可能な限りマスクを持参・着用することを呼びかけます新型コロナウィルスは、感染しても自覚症状がない場合が多く、マスクの着用は自分以外の人間を感染させないために有効です

■申し込み⇒hatoba.de.dialogue@gmail.com
※【要事前申し込み】新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、今回は事前申し込み制とさせて頂きます