“Jetty” dialogue cafe

当会のメンバーも寄稿しました!機関誌『みんなで考えよう』(哲学プラクティス連絡会)


「哲学プラクティス」に関心を持つすべての人の交流のための機関「哲学プラクティス連絡会」より、この度、機関誌『みんなで考えよう』が創刊されました。

当会のメンバーも寄稿しております。

機関紙の内容は、下記のサイトで自由に閲覧可能です。

是非ご覧ください。

機関誌『みんなで考えよう』創刊号公開のお知らせ哲学プラクティス連絡会
※印刷冊子版の販売もされているそうです


第19回 ウソ(fake)はどこから!? ~つくり話・冗談、虚偽について~


「議論の前提が崩れてしまう」

「話し合いの土台そのものを破壊するに等しい」

「民主主義」とまで言わなくとも、ウソをつかないということは、社会において万人が備えるべき「倫理」として存在していると言えるでしょう。

一方、それを単に「つくり話」と言ったら、どうでしょうか。

小説に詩歌、絵画や音楽。

およそアートやカルチャーというものは一切、「想像力」の産物と言えます。

また、さらに身近なところでさえ。

日常のコミュニケーションにおいて「冗談」は、大変重要な役割を果たしていると言えるでしょう。

真剣な話しが全く出来ないというのも困ったものでしょうが、ジョークのひとつも許されないという環境は、私たちの言動を大変窮屈なものとしてしまうのではないでしょうか?

虚偽をかたることが「罪」として厳しく禁止される一方で、「事実ではない」ということを前提にそれを楽しむことにもまた、大変重要な役割が与えられる。

一体私たちにとって、<ウソ>とはどのようなものなのでしょうか?

もちろん、「虚偽」と「冗談」は別のもの。

特に権力の座にある者が、自分達の都合に合わせて事実を捏造するということは、許されないことだと思います。

しかし少なくとも、それらは人の心の中に留まる限りでは、同じ源泉をもっている…とは言えないでしょうか?

一体<ウソ>と「つくり話」や「冗談」は、どのように違うものなのでしょうか?

<ウソ>が国家的危機として語られている現在。

<ウソ>とはそもそもどのようなことなのか、考えてみたいと思います。

チラシ

■日時:4月21日(土)14時~

■場所:カフェ・エクレシア蔵前店東京都台東区蔵前2-7-6
※日本聖公会浅草聖ヨハネ教会併設

※会場入り口には段差が存在しますが、あいにく昇降機などの設備はございません。入場にご不安を感じる方は、その旨お申し出頂ければ、可能な限りの対応をさせて頂きます。
※会場内には洋式のトイレがございますが、車椅子が入るほどの広さはございません。16時までは、隣接の日本聖公会浅草聖ヨハネ教会のバリア・フリー対応トイレがご利用頂けます。

■アクセス:蔵前駅徒歩3分(都営地下鉄浅草線、都営地下鉄大江戸線)

■参加費:500円(ワンドリンク込み)
■申し込み:不要
※おおまかな人数を把握したいので事前にご連絡頂けると助かります
⇒hatoba.de.dialogue@gmail.com

 


【報告】第18回 笑ってはいけない、のはどうして?



1月27日(土)の午後。

第18回波止場てつがくカフェは、大崎駅からほど近い「複合型巨大施設」にて行われた。

かつてはSONY関連の工場が数多く存在したという大崎だが、今はオフィスや商業店舗が同居する巨大なビル郡が並び立つエリアとなっている。

ベンチや植え込みも多く存在するこのエリアはしかし、歩くとなんとなく人工的な印象の風景が続いて、なんだか奇妙な浮遊感を覚えた。


さて、今回のテーマは「笑ってはいけない、のはどうして?」。

昨年末の大晦日、毎年恒例の特番としてTV放送されているバライティー番組で、あるお笑い芸人が顔を黒塗りにして有名な「黒人」の俳優に扮するという演出が行われた。

「それは人種差別ではないのか――?」

この放送は、多くの批判・反響を引き起こし、海外メディアにも多数紹介されるなど、社会的議論の対象として注目を浴びた。

顔を「黒塗り」にする演出は「ミンストレル・ショー」として、特にアメリカ合衆国において、人種差別であると批判されてきた歴史があるという。

そのようなニュースや議論が記憶に新しい中で、果たしてどのような対話を行うことができるか。

この番組をめぐる事件についても触れられながら、対話は進んでいった。

  • 被災地にボランティアに行ったとき、あることで思わず笑ってしまったのだが、そもそも笑うこと自体が不謹慎だと言われ、暴力を受けた。
  • 「笑い」というものは、コンプレックスと関係していると思う。笑ってはいけないことが共有されている場では、「怒り」が表出されやすいと思う。
  • 日本の「笑い」や文化が、世界の感覚と大きくズレているのではないかと感じる。「ブラック」という言葉は、現代の日本社会において否定的な言葉として用いられることがあるが、そのような用法がそもそも適当なのかと感じる。
  • TVでは、たとえば「撲滅したほうがよい」というような番組があるという人もいるかもしれないが、単にそのような番組がなければよい、見なければよい、ということでは問題があるように思う。
  • 笑いには、「いじめ」につながる要素と「批判」「風刺」につながる要素があるように思う。
  • いじめは相手を見下すものだと思うが、「批判」は権力者に向けられたものではないか。

序盤から発言は途切れることなく、活発に提出されるた。そして話題は徐々に、「笑い」から「規範」へと移ってく。

  • 「笑い」と「規範」が衝突することがあるが、「規範」は集団的に機能するもので、権力として作用する。
  • マイノリティであっても、「規範」に訴えることで力をもつことがある。
  • 笑うことが「不謹慎だ」と言われる場面では、不謹慎と感じた人の怒りを受け止めることを要求されている。
  • 「不謹慎」だという批判の本質は、マジョリティの価値観を共有していないことに対するものではないのか。

また、「笑い」にもクスリ/ニヤリ/高笑い、など様々なものがあることにも話が及んだ。

  • 「マイノリティ」というものは、時に「マジョリティ」との「違い」を強調されて理解される。また、それがコンプレックスを生み出すことにもつながることもある。
  • 「マジョリティ」と違っていること、変わっていることを自ら「ネタ」にしたとき、「笑い」になるのではないか。
  • 社会的規範を背負っている側の笑いもあるが、自分ひとりの価値観だけによる「笑い」もあると思う。
    ex.子供が葬式で笑う
  • 「笑い」は、社会規範によらざるを得ない性質があるのではないか。
  • お笑い漫画やアニメには、大真面目に行動する主人公の失敗を「笑い」として描きつつ、そこから「教訓」を伝えるような話しが、ある種の典型として存在してるが、その失敗は主人公の立場にたってみれば深刻なもので「いたたまれない」と感じる。
  • 一方で、そうした失敗が「規範」として説かれる場合は「笑ってはいけない」ものとして、規範に組み込まれなければ「笑われる」対象として扱われるのは、理不尽なことだと思う。
  • 殺人やレイプですら「笑い」として機能している現実を考えると、「笑い」というのは大変に暴力的だと思う。
  • 「笑う人」と「笑わせる人」は同じ社会規範を共有しているといえるのか?

これまで提出された「笑い」についての性質を確認した後、キーワードとして、下記のような言葉が提出された。

  • 軽蔑
  • 上下
  • 優劣←ボケ、ツッコミ
  • 悲惨
  • 風刺
  • 道化

この後、話しは問いを考える段階になって難航した。

「笑い」は、それが発せられる場所であるともいえる「社会的関係」とどのように関係するのかをめぐって、いくつかの方向性が示されたものの、それらを問いの形式として充分に展開することが難しかったのかもしれない。

結果としては、「社会的関係を読み込まない笑いはない」という前提から、笑いには以下の二種類があるのではないかという見解が提出された。

  • 自分と違う存在を対象とする「笑い」/自分を含む集団を笑の対象にする「笑い」
  • 笑う側/笑われる側の、どちらの立場に自分を置くかによって 笑える/笑えない ということが決まる


しかし、では「社会的関係」とは何なのか。

様々にその周辺を探り回った対話であったと思うが、残念ながら今回は、この問題を正確に捉え切ることができなかったとも感じる。

しかし、参加者はそれぞれ大変活発に考えを述べ合い、懸命に「笑い」に大きく影響を及ぼしている「社会的関係」の在りようを言葉にしようと試みていたと思う。

第18回波止場てつがくカフェは、以下の暫定的な問いを確認して終了となった。


問 「笑い」に社会的関係は読み込まれるか?

答 「上下」「優劣」といった関係が強く読み込まれる。


(了)

***


第18回 笑ってはいけない、のはどうして?

  • 日時:1月27日(土)14時~
  • 場所:大崎駅近くの巨大施設
  • 参加費:無料(カンパ歓迎)
***


※「本レポートは対話の場の主催者として掲載するものですが、報告者の個人的見解を前提としています。種々の制約によりラフな記録と記憶をたよりに作成されているため、現になされた対話の事実と食い違うところがあるかもしれません。何卒ご承知おき頂きたく、お願い申し上げます。

【協力企画】てつがくカフェ×別れの博物館



波止場てつがくカフェは、この春、展示企画「別れの博物館」とのコラボレーションとして開催される「てつがくカフェ×別れの博物館」に、ファシリテーション・グラフィックの協力・提供をすることになりました!

当日は、波止場のスタッフがホワイトボードにマーカーを走らせます。

「あなたとわたしのお別れ展」とも題されている展示、「別れの博物館」。

見ず知らずの人同士が、いきなり「お別れ」の話しを始めるというのも、なんだかとってもおもしろそう!!

是非ご参加ください。

⇒詳細はコチラ


***

別れの博物館」は、2006年、
クロアチアの元カップルがスタートしたもので、
一般の方々から、
「別れ」の際に残された「思い出の品」とそれにまつわるエピソードを
募った品々を展示する博物館です。
これまでに世界29ヵ国、45都市を巡回、
日本では、株式会社カネコ・アンド・アソシエイツ・ジャパンが主催し、
初開催となる展覧会です
(会期=2018年3月31日(土) ~4月14日(土))。

この企画のコンセプトに深く関心を寄せた、
株式会社シンクアップは、
4月2日(月)、同会場、アーツ千代田3331にて、
本博物館とのコラボレーションイベントとして、
「てつがくカフェ×別れの博物館」を
企画しました。

この企画では、博物館見学者と、
感想や意見の交換をするだけでなく、
「てつがくカフェ」という対話形式をとることで、
博物館の展示や、コンセプトについて、
じっくり考え、語り合うひとときを持ちます。

このイベントを通じ、参加者同士が交流し、
自分では思いつかなかった考え方を見出し、
展示を改めて深く味わうという、珍しい試みです。

***

【日時】2018年4月2日(月)18:30~20:30(開場 18:15)
【場所】アーツ千代田3331 1Fラウンジ(東京都千代田区外神田6-11-14)

【ファシリテーター】栗原直以(株式会社シンクアップ代表)
【グラフィック協力】 波止場てつがくカフェ  
【参加費】1,000円(当日支払)
【定員】20名(定員になり次第、締切)
【申込】thinkupltd@gmail.com に、名前、住所、電話をメールしてください
(4月1日12:00正午締切)
【協力】株式会社カネコ・アンド・アソシエイツ・ジャパン

※展示「別れの博物館」は、「てつがくカフェ×別れの博物館」とは別の企画となります
※「てつがくカフェ×別れの博物館」の参加費は、別れの博物館の入場料とは別に必要になります(それぞれ単独でご入場頂けます)

⇒展示「別れの博物館」の詳細はコチラ
・期間:2018年3月31日(土) ~4月14日(土)11:00-21:00
・場所:アーツ千代田3331 1Fメインギャラリー
   
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※この企画についてのお問合せは、直接株式会社シンクアップthinkupltd@gmail.com)までお願いいたします

外部企画
【意見交換会】対話と政治
~「対話と圧力」の政治をめぐって~


波戸場のスタッフも呼びかけ人として加わっています。

この企画は、主に「対話」という言葉に関わる活動をされている方々に向けて用意されたものですが、特に「活動」というわけじゃないけど関心があるという方も歓迎です。

是非お越しください!

⇒申込みはコチラ

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「対話」という言葉が置かれている状況を、あなたはどのように考えますか?

対話型授業、企業内対話、市民対話、対話型ビジネス・・・

「熟議民主主義」、更にはシティズン・シップ教育や「新しい公共」といったものまでその円周に含めれば、「対話」という言葉には、コミュニケーションの困難が叫ばれる現代社会において、様々な期待や希望が読み込まれているように感じます。

たとえば「道徳の教科化」を契機としつつ、教育分野でも対話型の教育の普及が前向きに検討されていることを考えるとき――。(注1

今や「対話」は時代の要請である、そのような声も、故無きものではないように感じられます。

一方、昨年そのような方向性とは正反対とも考えられる内容が、日本政府の外交方針として掲げられました。

「必要なのは、対話ではない。圧力なのです。」

昨年9月21日のニューヨーク。国連総会の場において安倍・内閣総理大臣は、このように演説を行いました。(注2

2000年代以降、おもに朝鮮民主主義人民共和国を念頭に繰り返されてきた「対話と圧力」という外交方針は、緊迫化する東アジア情勢の中で、今や「圧力」こそが必要なのであると断言されるに到ったのです。

政治指導者が、ネットを通じて互いに罵詈雑言を浴びせあう中。

「対話」の放棄が宣言され、「圧力」がそれにとって代わる――。

その向こうには、東アジア地域を主戦場とした軍事衝突が――核兵器の使用という可能性を含んだものとして――見据えられています。

政府のこうした言説を、「対話の場」の場を開いていこうとする者は、どのように受け止めるべきでしょう?

外交の場における「対話」は、私たちの「対話」とは全く無関係のものとして切り分けるべきでしょうか?

私たちの「対話」と外交における「対話」は、どのように異なるものでしょうか?

時に未来を切り拓くための「価値」を示すものとして期待を集めるものが、しかし同時に、一国の政府によって「必要がない」と放棄される。

「対話」という言葉は現在、極めてアンビバレントな状況に置かれていると感じます。

私たちは、この混乱をどのように考えればよいでしょうか?

そもそも「対話」は、本当に必要とされているのものなのでしょうか?(あるいは、「誰に」?)

「対話」という言葉は現在、一体どのような状況のもとに置かれているのか。

そしてその中で、“私たち”の「対話」はどのようなものであり得るのか。

前提を設けることなく、話してみませんか?


政府による「対話の放棄」という宣言を前にして。

「対話」を大切にし、それを社会に生かそうとする全ての方に、呼びかけます。
 
***


注1
文部科学省,研究開発学校制度,お茶の水女子大学附属小学校(東京都)(平成27年度指定)

お茶の水女子大学附属小学校では、「教育実践の中から提起される諸課題や、学校教育に対する多様な要請に対応した新しい教育課程(カリキュラム)や指導方法を開発するため、学習指導要領等の国の基準によらない教育課程の編成・実施」を行う「研究開発学校」の指定を受け、新たに「てつがく」科が創設された。

この教科では、「自明と思われる価値やことがらを、「対話」や「討議」など多様な言語活動を通して問い直し考える」ことで、「「道徳の時間」と他教科の関連を図り」ながら、「教育課程全体で、人間性・道徳性と思考力とを関連づけて育む研究開発を行う」ことが目指されている。



注2
第72回国連総会における安倍内閣総理大臣一般討論演説

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■タイトル
【意見交換会】対話と政治 ~「対話と圧力」の政治をめぐって~

※この呼びかけは、「対話」に関心をお持ちの方々と前提を設けず、ざっくばらんに考えを述べ合い、聞きあう試みとして企画するものです。当日は議事整理のため司会を設けますが、特にファシリテーションを行うようなことはございません。

■日時
2018年3月25日(日)13時~

■場所
新宿区立消費生活センター分館・会議室(高田馬場創業支援センター 併設)
東京都新宿区高田馬場1丁目32−10
地図はコチラ

■アクセス
JR山手線 高田馬場駅 戸山口より徒歩約2分
西武新宿線 高田馬場駅より徒歩約3分
東京メトロ東西線 高田馬場駅より徒歩約5分
都営バス 高71(高田馬場駅前-九段下) 高田馬場駅通り 下車
関東バス 百01(高田馬場駅-東中野駅東口) 高田馬場駅通り 下車

■参加費
100円(会場代)

■申し込み
コチラのページ(こくちーず)よりお申し込みください。
※アカウント登録などの必要はなく、お名前とメールアドレスのみの記入で申し込み可能です

■呼びかけ人
・佐野佳子(対話の実験室@公-差-転
・しばたはる(波止場てつがくカフェ
・寺田俊郎(カフェフィロこども哲学おとな哲学アーダコーダ
・八尾浩幸(デモクラシー・カフェ@東村山

【報告】第17 回 「震災後文学を東京で読むこと」


東日本大震災をテーマにすることは、波止場てつがくカフェがずっと取り組みたいと考えていたことでした。また、文学テキストを使ったてつがくカフェの試みも模索していました。

そんな折、震災後は福島をテーマにした作品を発表し続けている作家の志賀泉さんとお目にかかる機会があり、志賀さんの作品を使ったてつがくカフェを打診したところ、快諾していただきました。

それによって実現したのが、2017年11月18日(土)に開催した第17回波止場てつがくカフェ「震災後文学を東京で読むこと」です。千代田アーツ3111内のエイブル・アート・ジャパンのご協力により、ギャラリーを会場として使用させていただきました。

当日、13時より受付を開始し、志賀泉さんの新作「花火なんか見もしなかった」(「吟醸掌編 vol.2」掲載 けいこう舎刊)を配布、参加者には好きな場所で読んでいただきました。



作品は、南相馬市小高町とおぼしき町を舞台に、そこで生まれ育った少年が、震災と原発事故により故郷を離れることを余儀なくされ、つらい体験を重ねながら成長し、そして再開された花火大会の日に、久しぶりに故郷に帰るという物語。かすかな希望の光が差す結末ではありながら、厳しい被災地の現状を正面から見据えた作品です。

14時より、志賀泉さんにご登場いただき、故郷である小高町(南相馬市)の花火大会の映像を見ながら、作品の背景、作家の思いなどを語っていただきました。途中、声を詰まらせながらお話しされ、震災がまったく過去のものではないんだということが、胸に迫ってきました。

質疑応答後、志賀さんは作家としてではなく一参加者として、第二部のてつがくカフェに加わると宣言。いつもとはまったく違う波止場てつがくカフェに、後半への期待も高まりました。


***


第一部の志賀さんのトークを終えた後、しばらくの休憩を挟んで第二部。

てつがくカフェがスタートした。

今回の企画のテーマは「震災後文学を東京で読むこと」なのだから、当然といえば当然。

開始冒頭の参加者の発言は、「文学」への関心が感じられるものであった。

  • 「震災後文学」と「震災文学」はどのように違うのかという話があると思う。「戦後文学」という言葉は、戦争が世界を変えるような大きな出来事であったがゆえに成立したのだろう。震災が戦争と同じく「世界」を変えたのであるのならば、「震災後文学」というものは成立しうると考える。
  • 「震災」とは何なのか、という視点をはらみつつ、発言は、当日のテキストであった「花火なんか見もしなかった」(志賀泉著、けいこう舎『吟醸掌編 vol.2』所収)の内容に向かう。
  • 主人公は、生者ではなく死者から力を得ているようだ
  • 「主人公にとって「さいわい」「しあわせ」とは何か?
  • 「死んだ人の声」とは何か?「死者を信じる」とはどういうことか?


また、「原発」という存在についても話は及んだ。

  • 「原発が悪い」という言葉では済まされないのだとしたら、どうすれば「済む」といえるのか?
  • 原発が悪い、ということを理解していたとしても、原発を批判する語り口に反発を感じてしまう
  • Co2削減に有効だとか、地元経済の活性化につながるとか、原発そのものが矛盾を抱えた存在である中で、原発を批判することは、それに依存する地元の社会を批判することだと受け取られる場合がある。それぞれの個人が抱えるリアリティーの摺り合わせがされていないように感じる。

 


原発という存在について指摘された「矛盾」の一方で、「復興」や「絆」といった言葉についても、様々な考えが示された。

  • 「絆」や「復興」など、様々な言葉が使い回されることに対する不信がある
  • 「被災地」が、ある種の「聖地」とされてしまうことに対する違和感 ex.被災地やメモリアル・モニュメントでのポケモン・ゴー
  • 「絆」や「復興」といった「決まり文句」は、そのムーブメントに「参加」できたような気分にさせる一方で、「忘れられてしまう」という事態を生んでいるのではないか
  • 生者の世界としての「東京」は、原発を批判することで経済成長(=復興?)を達成しているということはないか。

それから、「復興」という言葉に関連するであろうか、この物語の重要な要素のひとつである「花火」については、このような考えも。

  • 花火は、原発事故を連想させるようなものであるようにも感じた
  • 花火は戦後、戦中の空襲を思い起こさせるものとしてしばらく自粛されたこともあったと聞く。そういう意味では、花火が楽しみとして受け入れられていくのは「復興」を示す事柄であるともいえるかもしれない。

「死者」や「しあわせ」「さいわい」といった言葉と関連して、作品中に何度か引用される宮沢賢治についても何度か発言があった

  • 震災によって失われてしまった、個人が場所と時間をはぐくむリアリティーというものが、宮沢賢治を媒介にしながら、文学として回復されるのだと感じた。


キーワードとしては、以下の語句があげられた。

  • 東京による地方いじめ
  • 自殺
  • 原発事故後の「原発」(矛盾を抱えるもの、必要悪)
  • 現実/幻想
  • 死者
  • フクシマと東京(カタカナの「フクシマ」は東京を含んだ言葉だと思う)
  • 震災前/震災後

しかし、その後の対話の方向性は、おもに「リアリティ」と「寄り添う」ということにフォーカスされていった。

  • 震災後のリアリティとは何か?

との問いが示される一方で、

  • 「震災」のリアリティは、個人によって異なるのではないか

との指摘も。

また、

  • そもそもそれは「回復」されなければいけないのか

という考えも述べられた。


この場で「リアリティ」という言葉で語られているものは、一体どのような事柄を示しているのか。

問いを考える作業は、結局は「リアリティの回復」という言葉の意味を明らかにするものであったのかもしれない。


今回の対話は、以下の問いと答を提出して場を終了することとなった。


問 他者に寄り添うにはどうしたらいいか?

答 自分と自分じゃない人の違いを意識しつつ、お互いのリアリティをすり合せていく


***


第17 回 「震災後文学を東京で読むこと」 [特別企画] “読んで対話する" こころみ

■日時2017年11月18 日(土)14 時~
■場所エイブル・アート・ギャラリー
■参加費500円(テキスト代含む)


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※「本レポートは対話の場の主催者として掲載するものですが、報告者の個人的見解を前提としています。種々の制約によりラフな記録と記憶をたよりに作成されているため、現になされた対話の事実と食い違うところがあるかもしれません。何卒ご承知おき頂きたく、お願い申し上げます。

第18回 笑ってはいけない、のはどうして?

 


悲しみといわず、苦しみといわず。

およそこの世にあるあらゆるものを「笑い」飛ばしてしまうほど、「笑い」は私達の日常に「楽しみ」をもたらし活力を養う、もっとも基本的な欲求であると言えます。

一方、社会では、笑うことがためらわれる場面や、それを「ネタ」にすることが適切ではないと理解されている物事があります。特に、個人や特定の集団の文化、風習、身体的特徴などを笑いの対象とすることは、時に「差別」であると非難の対象とされることも。

それはイジメなのか、「イジリ」なのか。 差別なのか、「ネタ」なのか。

ある人にとってはすごく面白い「ネタ」が、別の誰かにとっては不愉快、あるいは、深刻に尊厳を脅かすものとなってしまうこともあります。

人を楽しませ、朗らかにさせるものが同時に、人を傷つけ、分断するものにもなる。これほどまでに私達を翻弄する「笑い」とは、一体何なのでしょうか?

「笑ってはいけない」とされるのは、果たしてどのような経緯から発せられるものなのでしょうか?

どうして私達は「笑いたい」、あるいは「笑って“しまう”」のでしょうか?」

「笑ってはいけない」ということを通じて、「笑い」とはそもそもどのようなことなのか、考えてみたいと思います。


チラシ


■日時:1月27日(土)14時~

■場所:大崎駅近くの巨大施設
※お申込みを頂いた方には具体的な場所をお知らせいたします
※性別や車椅子利用の有無などに関わらず利用できるトイレが施設内にあります

■集合:13時40分にJR大崎駅南改札口付近
⇒事前申し込みをしていない方はご利用下さい

■参加費:無料(カンパ歓迎)

■申し込み⇒hatoba.de.dialogue@gmail.com