【投稿】「死」に関する、ある哲学対話での一件について~その2~
前回、私は「How to Get to 哲学対話 ?」主催の哲学対話で起きた問題と、その後の同グループの対応について苦言を述べました。
私以外にも、様々な方々から問題解決に向けた働きかけが行われていると聞いていました(※1)ので、状況がよい方向に進展していくことを期待していましたが、しかしその後も、公表された謝罪文は更新されることがないまま、先日、このグループと密接な関係にあると思われる「こまば哲学カフェ」(両者の関係については※2を参照)において、「【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話】 Vol.8:誰にもわからない悲しみはあるか?」と題された哲学対話の企画が開催予定であることを知るに到り、前回述べた苦言では、事態の改善を促すに不十分であると考えるに到りました。
以下、「How to Get to 哲学対話?」および、同グループと密接な関係にあると思われる「こまば哲学カフェ」に対して批判を述べます。
解決に向けて、関係者の皆さんが真摯に問題に取り組むことを訴えます。
1、主催者としての責任を放棄する「改善策」
問題の告発を受けて4月29日に発表された謝罪文は、率直に言って経緯が不明な点が多く、意味を理解しかねる箇所が多くあるものでした。
中でも、以下の部分は特に問題だと感じました。
>2:知識レベルの高い内容、センシティブな話題が出た場合の対応
・緊急サインで話を一旦止める。介入する。
・その内容について、この場で対話を継続した場合、ファシリテーターの力量にあまるため、発言のコントロールができないが、それでもこのまま話すかどうか選択してもらう。
例えば今回問題になっている事態が、まさに「センシティブな話題」に該当するのだと思いますが、この改善策に拠るならば、参加者は、たとえファシリテータ―による介入があったところで、それに拘わることなく差別的発言を続行することが可能になってしまいます。
これは哲学対話という場における主催者の責任を、全く放棄する行為に等しいものではないでしょうか?(※3)
これでは今後、同種の問題が発生することを防止することはできないと思います。
2、どのような「責任」が問われているのか?
またそもそも今回の一件は、上記の改善策が想定するような、企画参加者によって引き起こされた事件ではなく、他でもない主催者であるSHIOKOさんの発言によって、直接に引き起こされたものではないのですか?(※4)
にも拘わらず、謝罪文では、今回の問題が引き起こされた原因について、
>センシティブな問題に接した時の私の対応に問題がある
>「私は何も知らない」という姿勢を大切にしてはいますが、その無知の取り扱い方を誤っていたと反省しています。
というように認識が示されるだけで、どうして
>人を酷く傷つけてしま
うような発言がなされてしまったのか、判然としません。
また問題は、当日発せられた発言に限定されるものではないと思います。
前回記事でも指摘しましたが、そもそもどうして「最高の死をデザインしたいか?」などというテーマが採択されてしまったのか。
問題とされている発言は、今回の催しの企画段階に遡って、その原因が探られるべきではないのでしょうか?
主宰者のSHIOKOさんが「死」についてどのような関心をお持ちなのかは兎も角、哲学対話の主催者であるならば、私たちが「死」について対等に語ることができるために一体何が必要で、何に気を付けるべきなのか、腐心して考えなくてはならないはずです。
にも拘わらず、謝罪文には、そうした主体的省察は全く示されていません。
ここには、哲学対話の主催者として果たすべき責任を軽視する姿勢が見て取れると、私は思います。
また、このように、本来明かされるべき、問題を発生せしめた原因が示されることがない一方、謝罪と無内容な改善策が示されることによって、この謝罪文の性格は全体として極めて曖昧、かつ趣旨の不明なものになってしまっていると思います。
謝罪文のこうした姿勢は、本来この文書によって回復すべき信頼を損うものになってしまってはいないでしょうか?
本件について、「How to Get to 哲学対話?」は一体どのような責任を負っているのか、認識を明確に示すべきだと思います。
3、"エア安全弁"を設置して企画される「安全な」哲学対話
このうような状態のまま、今回新たに「How to Get to 哲学対話?」と密接な関係のもとにある「こまば哲学カフェ」の哲学対話が開催されようとしています()(※5)。
そしてこの企画は、上述した「How to Get to 哲学対話 ?」による「改善策」の下で開催されるものと推察されます。(※6)
問題についての省察をおろそかにしたまま、誤った改善策のもとで「哲学対話」が開催されるわけですから、同様の事件が再び繰り返される可能性が排除できません。
というより現状は、もし仮に問題が発生したとしても、最終的にはファシリテーターが関与「しない」ことが担保されている状態にあるわけです。
これは商品にたとえるなら、事故を受けて設置されたのが"エア安全弁"だったというような状態でしょう。
実際の安全確保はされていないのに、事態は「改善」されたと発表されているわけですから、現在の状況は実に奇妙なものであると言わざるを得ません。
一方、開催が予定されている「こまば哲学カフェ」の案内文には、
>普段、周りを気遣って使えない言葉や表現も、ルールに守られた哲学対話の場では安全に発言できます。
と記載があります。
>ファシリテーターの力量にあまるため、発言のコントロールができないが、それでもこのまま話すかどうか選択してもらう。
ことが緊急時のマニュアルとして定められている場を、どうして安全だと言うことができるでしょうか?
また何より、今回の事件の被害者であるAさん(仮名)が発表されたテクスト(※7)を読む限り、示された謝罪は全く受け入れられていないと思います。
予定されている「こまば哲学カフェ」の案内文にも目を通しましたが、「誰にもわからない悲しみはあるか?」とのフレーズは、果たしてAさんにはどのように聞こえるか。
私はとても心配な気持ちになります。
「How to Get to 哲学対話 ?」および「こまば哲学カフェ」が今優先すべきなのは、まずはAさんへの謝罪であって、そのための問題の真摯な検証です。
少なくとも、既に示されている誤った改善策のもとで、新たに哲学対話をはじめるべきではないと、私は考えます。
「How to Get to 哲学対話 ?」および「こまば哲学カフェ」には、多くの協力者が関わっていると思います。(※8)
関係者の皆さんが今一度考えを見直し、今般の問題を受けて失われてしまっている信頼の回復に努められることを、切に訴えます。
文責
波止場てつがくカフェ
しばたはる
※1
今回の問題を受けて5月17日、関係者の働きかけにより、永く日本における哲学対話の活動を牽引してきた「カフェフィロ」より声明が、正会員一致で発表された。またそれとは別に、5月14日には有志によって、音声SNSを介して、Aさんを招き今回の問題について話を聞く催しがあったという。
- 「人々の尊厳が守られる場を目指して」(カフェフィロ、2021/05/17)
※2 問題となっている「How to Get to
哲学対話 ?」主催の「【哲学対話×Dabel】Vol.41テーマ:最高の死をデザインしたいか?」(3月29日開催)から5日後の4月3日、全く同様のテーマにて、「こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話】 Vol.6:最高の死をデザインしたいか?」が開催されている。
両者の関係について説明はなく、今もって不明なままだが、以下の点から両者の密接な関係が窺い知ることができ、二者は一体の体制のもとで運営されている可能性もあると推察される。
なお、本稿で取り上げた「こまば哲学カフェ」や「【哲学対話×Dabel】」以外にも、Peatixアカウント「How to Get to 哲学対話
?」では様々な哲学対話の企画が告知・募集されているが、やはりそれぞれがどのような関係にあるのか、全容は不明である。
- どちらもイベント告知サービスPeatix上の同一アカウント「How to Get to 哲学対話 ?」の管理するページで告知を行っている
- 上記アカウントには「SHIOKO IDE」の名称が記載されていることから、本アカウントは「How to Get to 哲学対話?」主宰のSHIOKOであることが推測される
- 「こまば哲学カフェ」の複数の催事告知ページに、「世話役:いでしおこ(How to Get to哲学対話?)」と掲載があり、この人物が「How to Get to 哲学対話 ?」主宰のSHIOKOであることが推測される
- 【哲学対話×Dabel】Vol.41 テーマ:最高の死をデザインしたいか? (3月29日開催)
- こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話 】 Vol.6:最高の死をデザインしたいか? (4月3日開催)
- こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話 】 Vol.7:「悼む(いたむ)」にはどんなスキルが必要か?(5月7日開催)
- こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話 】 Vol.8:誰にもわからない悲しみはあるか?(6月13日開催予定)
※3 今詳しく検討することは出来ないが、この謝罪文には、「無知」をめぐって考えてみるべき興味深い問題の影がほのめいているように思う。
謝罪文には
>「私は何も知らない」という姿勢を大切にしてはいますが、その無知の取り扱い方を誤っていたと反省しています。
>「分からない者同士の対話である」ことを前提として話をはじめよう
>「参加者全員の"無知であるがゆえのデリケートさを欠いた発言"などがあります。…」と案内を入れる
などと記載があるが、そもそも「「分からない者」「無知」である者が、「センシティブな話題」が提出され、かつ「ファシリテーターの力量にあまる」事態に陥った場合に、果たしてどのように行動するべきなのか、判断することが可能だろうか?
また、ファシリテーターも同じく「分からない者」「無知」である者なのだとしたのなら、そもそもそれが「センシティブな話題」であるかどうかを認識することなど出来ないのではないだろか?
一体、ここで提出されている「無知」「分からない」というものは、呼びかけられる「哲学対話」とどのような関係にあるのだろうか?
※4 謝罪文から確定的にわかる事実は、主宰者のSHIOKOに向けて、Aより「緩和ケアと安楽死を混同しているのではないか?」との指摘があったということだけだ。
SHIOKOは「明確な記憶がない」と断定を避けつつ、しかし自身がそのような考えを常日頃から持っているため、当日そのように発言することを「想像できる」と述べるに留まっている。
謝罪の言葉が述べられる一方で、このように事実関係の確定が不十分である点も、謝罪文の趣旨を不明なものとしてしまっているように思われる。
一方、6月1日、Aはブログを通じて本件について文章を発表した。
Aは、問題の発言者を「某氏」と表記しつつ、会場にて「高齢で寝たきりになりチューブだらけになるならば、モルヒネとか使って安楽死がしたい」との発言があったと述べている。
※5 「こまば哲学カフェ【シリーズ:あの世とこの世の哲学対話 】 Vol.8:誰にもわからない悲しみはあるか?」(6月13日開催予定)
※6 事件に対する改善策が発表された4月29日以降に開催された「こまばてつがくカフェ」の複数の告知ページに、発表された改善策の一部と全く同じ文が、注意書きとして掲載されている。
※7 ブログ「日々紡いだモノたち」
※8 「こまば哲学カフェ」には「協力」としてP4E(Philosophy for
Everyone)研究会、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属共生のための国際哲学研究センター(UTCP)の名前が記載されている。