【報告】第17 回 「震災後文学を東京で読むこと」
東日本大震災をテーマにすることは、波止場てつがくカフェがずっと取り組みたいと考えていたことでした。また、文学テキストを使ったてつがくカフェの試みも模索していました。
そんな折、震災後は福島をテーマにした作品を発表し続けている作家の志賀泉さんとお目にかかる機会があり、志賀さんの作品を使ったてつがくカフェを打診したところ、快諾していただきました。
それによって実現したのが、2017年11月18日(土)に開催した第17回波止場てつがくカフェ「震災後文学を東京で読むこと」です。千代田アーツ3111内のエイブル・アート・ジャパンのご協力により、ギャラリーを会場として使用させていただきました。
当日、13時より受付を開始し、志賀泉さんの新作「花火なんか見もしなかった」(「吟醸掌編 vol.2」掲載 けいこう舎刊)を配布、参加者には好きな場所で読んでいただきました。
作品は、南相馬市小高町とおぼしき町を舞台に、そこで生まれ育った少年が、震災と原発事故により故郷を離れることを余儀なくされ、つらい体験を重ねながら成長し、そして再開された花火大会の日に、久しぶりに故郷に帰るという物語。かすかな希望の光が差す結末ではありながら、厳しい被災地の現状を正面から見据えた作品です。
14時より、志賀泉さんにご登場いただき、故郷である小高町(南相馬市)の花火大会の映像を見ながら、作品の背景、作家の思いなどを語っていただきました。途中、声を詰まらせながらお話しされ、震災がまったく過去のものではないんだということが、胸に迫ってきました。
質疑応答後、志賀さんは作家としてではなく一参加者として、第二部のてつがくカフェに加わると宣言。いつもとはまったく違う波止場てつがくカフェに、後半への期待も高まりました。
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第一部の志賀さんのトークを終えた後、しばらくの休憩を挟んで第二部。
てつがくカフェがスタートした。
今回の企画のテーマは「震災後文学を東京で読むこと」なのだから、当然といえば当然。
開始冒頭の参加者の発言は、「文学」への関心が感じられるものであった。
- 「震災後文学」と「震災文学」はどのように違うのかという話があると思う。「戦後文学」という言葉は、戦争が世界を変えるような大きな出来事であったがゆえに成立したのだろう。震災が戦争と同じく「世界」を変えたのであるのならば、「震災後文学」というものは成立しうると考える。
- 「震災」とは何なのか、という視点をはらみつつ、発言は、当日のテキストであった「花火なんか見もしなかった」(志賀泉著、けいこう舎『吟醸掌編 vol.2』所収)の内容に向かう。
- 主人公は、生者ではなく死者から力を得ているようだ
- 「主人公にとって「さいわい」「しあわせ」とは何か?
- 「死んだ人の声」とは何か?「死者を信じる」とはどういうことか?
また、「原発」という存在についても話は及んだ。
- 「原発が悪い」という言葉では済まされないのだとしたら、どうすれば「済む」といえるのか?
- 原発が悪い、ということを理解していたとしても、原発を批判する語り口に反発を感じてしまう
- Co2削減に有効だとか、地元経済の活性化につながるとか、原発そのものが矛盾を抱えた存在である中で、原発を批判することは、それに依存する地元の社会を批判することだと受け取られる場合がある。それぞれの個人が抱えるリアリティーの摺り合わせがされていないように感じる。
原発という存在について指摘された「矛盾」の一方で、「復興」や「絆」といった言葉についても、様々な考えが示された。
- 「絆」や「復興」など、様々な言葉が使い回されることに対する不信がある
- 「被災地」が、ある種の「聖地」とされてしまうことに対する違和感 ex.被災地やメモリアル・モニュメントでのポケモン・ゴー
- 「絆」や「復興」といった「決まり文句」は、そのムーブメントに「参加」できたような気分にさせる一方で、「忘れられてしまう」という事態を生んでいるのではないか
- 生者の世界としての「東京」は、原発を批判することで経済成長(=復興?)を達成しているということはないか。
それから、「復興」という言葉に関連するであろうか、この物語の重要な要素のひとつである「花火」については、このような考えも。
- 花火は、原発事故を連想させるようなものであるようにも感じた
- 花火は戦後、戦中の空襲を思い起こさせるものとしてしばらく自粛されたこともあったと聞く。そういう意味では、花火が楽しみとして受け入れられていくのは「復興」を示す事柄であるともいえるかもしれない。
「死者」や「しあわせ」「さいわい」といった言葉と関連して、作品中に何度か引用される宮沢賢治についても何度か発言があった
- 震災によって失われてしまった、個人が場所と時間をはぐくむリアリティーというものが、宮沢賢治を媒介にしながら、文学として回復されるのだと感じた。
キーワードとしては、以下の語句があげられた。
- 東京による地方いじめ
- 自殺
- 原発事故後の「原発」(矛盾を抱えるもの、必要悪)
- 現実/幻想
- 死者
- フクシマと東京(カタカナの「フクシマ」は東京を含んだ言葉だと思う)
- 震災前/震災後
しかし、その後の対話の方向性は、おもに「リアリティ」と「寄り添う」ということにフォーカスされていった。
- 震災後のリアリティとは何か?
との問いが示される一方で、
- 「震災」のリアリティは、個人によって異なるのではないか
との指摘も。
また、
- そもそもそれは「回復」されなければいけないのか
という考えも述べられた。
この場で「リアリティ」という言葉で語られているものは、一体どのような事柄を示しているのか。
問いを考える作業は、結局は「リアリティの回復」という言葉の意味を明らかにするものであったのかもしれない。
今回の対話は、以下の問いと答を提出して場を終了することとなった。
問 他者に寄り添うにはどうしたらいいか?
答 自分と自分じゃない人の違いを意識しつつ、お互いのリアリティをすり合せていく
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第17 回
「震災後文学を東京で読むこと」
[特別企画] “読んで対話する" こころみ
■日時2017年11月18 日(土)14 時~
■場所エイブル・アート・ギャラリー
■参加費500円(テキスト代含む)
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※「本レポートは対話の場の主催者として掲載するものですが、報告者の個人的見解を前提としています。種々の制約によりラフな記録と記憶をたよりに作成されているため、現になされた対話の事実と食い違うところがあるかもしれません。何卒ご承知おき頂きたく、お願い申し上げます。