【ブース出展】
「必要なのは、対話ではない」と言われたら、どうする?
「哲学プラクティス連絡会」という集まりがございまして、年に一度、「大会」を開催しております。
一応、「てつがく」と名乗っております当会ですが、この度、ちょっと考えるところがごいざまして、以下の内容にてブース出展を行うことといたしました。
今回のこのブース出展では、通常のような「てつがくカフェ」を行うわけではありません。
今回の取り組みは、会場にご来場された方々と、上記テーマを通じた意見の交換や交流を深めることを目的とするものです。
年会費として2000円(学生:1000円、高校生以下無料)が必要となりますが、特に参加資格などはございませんので、ご関心がございましたら是非ご来場下さい。
上記の時間、会場にブースを設置して待機いたしますので、どうぞご都合のよい時間にお立ち寄り頂ければと思います。
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■日時 10月22日(日)10:00~18:30(9:30受付開始)
※前日21日(土)は、立正大学品川キャンパスにて前日祭が予定されております
■場所 立教大学池袋キャンパス
■費用 年会費 2000円(学生1000円、高校生以下無料)
※哲学プラクティス連絡会の年会費として受付にてお支払い下さい
※前日祭(立正大品川キャンパス)参加の場合は、翌日の大会にて年会費から1000円キャッシュバックを受けられる場合があるようです
⇒詳しくはコチラ
■参加申し込み・詳細
⇒ 詳しくは哲学プラクティス連絡会のwebサイトをご参照下さい。
※波止場てつがくカフェは、会場にて終日、下記テーマにて「被-相談」ブースの出展を行います。
■企画タイトル 「必要なのは、対話ではない」と言われたら、どうする?
■企画趣旨・説明
「必要なのは、対話ではない。圧力なのです。」
安倍・内閣総理大臣は、2017年9月21日、ニューヨークで行われた国連総会にて行われた一般討論演説にて、このようにスピーチを行いました。(注1)
朝鮮民主主義人民共和国による相次ぐミサイル・核実験。米海軍艦隊による日本海への展開と、韓国軍や日本・自衛隊との共同軍事演習。
各国首脳相互による罵り合いは、こうした軍事的緊張を更に高まらさせているように思われます。
東アジアは現在、「核戦争の危機」にある――。
これを根拠のない不安ということは、できないと思います。
ところで、安倍・内閣総理大臣のこのスピーチは、私たちにとって、見過ごすことができない論題を突きつけてはいないでしょうか?
つまり、安倍さんの発言は「対話」の必要性を否定するものである!
・・・と結論するのは性急かもしれませんが、少なくとも、「『対話』が必要でない場面がある」という考えを提示しているとは、思うのです。
さて、結論の性急を抑するためにも、安倍・内閣総理大臣がこうした発言に到った経緯について、今しばらく確認をした方がよいように思います。
上記スピーチにおいて、安倍・内閣総理大臣は、「対話」を何の価値もないものとして扱ったわけではないようです。
「これをもたらしたのは、対話の不足では、断じてありません。」
「辛抱強く、対話の努力を続けた」
思えば安倍・内閣総理大臣は、過去には、中国・大韓民国との外交に言及して、「対話のドアは常にオープンです」とも述べてきました。
安倍・内閣総理大臣は、
「対話とは、北朝鮮にとって、我々を欺き、時間を稼ぐため、むしろ最良の手段だった。」
という判断の下、
「必要なのは、対話ではない。圧力なのです。」
と結論しています。
もちろん、こうした発言は、日本の最高権力者のものであるとはいえ、それはあくまで「政治家」による発言です。
「『政治』の言葉としての『対話』と、私たちの考える『対話』は、全く別のものだ。」
そのようにお考えになる方も多いのではないかとも思います。
確かに「哲学プラクティス」を実践する立場においての「対話」と、政治における「対話」とは、そもそも全く違うものであるのかもしれません。
しかし、そうはいってもやはり、一国の首脳が、同じ「対話」という言葉を用いてその必要性を否定したという事実は、鈍い刺し傷のような疼きをもって、心に迫ってくるように感じられます。
「必要なのは、対話ではない。」
同じ「対話」という言葉を自分たちの課題として実践しようとする者にとって、この発言は、見過ごすことができない重大な問題を提示しているとはいえないでしょうか?
政治の世界における「対話」(と「圧力」)。
そして私たちが実践しようとしている「対話」。
あるいはそれは、「対話」一般という抽象と、私たち「哲学プラクティス」を実践する者たちが考える「対話」の違いに通じる差異であるでしょうか?
しかしだとすれば、私たちの「対話」にとっても、「圧力」というものが必要な場面があることを意味している可能性がないでしょうか?
ならば「圧力」は、「対話」とどのように違う(あるいは、違わない)ものなのでしょうか?
「対話」という言葉で私たちが指す営みは、一体どのようなものなのでしょうか?
そしてそれは、「戦争」という事態とどのように関わっているのでしょうか?
はからずも第3回哲学プラクティス連絡会が行われる10月22日(日)は、衆議院議員総選挙の投票日となりました。
政治情勢が目まぐるしく流動している現在。
選挙の結果によっては、政権が変更される可能性もあると言われています。
しかし、仮に政権がどのような個人・集団に握られるとしても、とりわけこの緊迫した国際情勢の下では、「必要なのは、対話ではない。」との言葉で提示された考えは(そして「圧力」が必要なのだという考えも)、変わることなく継承されていくように思えます。
そしてむしろその考えは、単にひとつの政権や政府の考えというだけではなく、ひろく私たちの社会で保持されている考えでもあるのではないでしょうか?
「核戦争の危機」の高まりの傍らで――。
政治の世界から発せられた「対話」についての考えに、どう応じればよいのか。
「哲学プラクティス」を実践する立場から、考えたいと思っています。
注1 「対話でなく、圧力必要」安倍首相、国連演説(毎日新聞 2017年9月21日)
・参考 第72回国連総会における安倍内閣総理大臣一般討論演説
※本企画は、波戸場てつがくカフェ・スタッフが、「哲学プラクティス」を実践する立場から、このテーマに関心をお持ちの方との交流と意見交換を目的として開催するものです。
※参加者複数となった場合に備え進行役を設置しますが、当会にて特別なファシリテーションなどをする予定はございません。スタイルにこだわらず、ざっくばらんにこのテーマについて皆様のお考えをお聞きし、お話しさせて頂く催しとしたいと思います。