【報告】第6回「<選ぶ>ということ」

【報告】第6回波止場てつがくカフェ「<選ぶ>ということ」



第6回波止場てつがくカフェ。「選ぶ」ということについて、参加者からは以下のような考えが述べられた。

  • 選んだり、選ばれたりということは、一般には中立なものとしてイメージされているが、実際にはその権利を与えられていない人がいる。あらかじめ「選ぶ/選ばれる」人の範囲が決められている。選挙でも、国籍保持者しか投票できない。
  • 選ぶということは際限なく自由で、無限の選択肢が与えられているかのように思われがちだけど、現実的には様々な制約があって、あまり自由はないことも。
  • 現実的な制約によって不本意な気持ちでその選択をせざるを得なかった場合であったとしても、結果について「あなたが選んだのだ」と責任を問われることがイヤ。
  • 選ぶといっても、選択肢が多数ある場合と二択という場合ではかなり違うと思う。
  • 何かを選んだ際に、選ばなかった選択肢は捨てたもの、否定されたものとされることが多いと思うが、本当に否定されたものといえるかどうか。
  • 人は何かを選ぶ際に、損得勘定をベースにしていると思われているが、本当にそうか。
  • 選択の自由が実際に実感できない中での「選択」を行った場合にすら、そのことの責任を問われるので、何も選択しないということを選ぶ場合も。
  • 選ぶということは、自分が何者なのか知っていく、ということでもあるのではないか。
  • 言語表現の問題として。日本では、諸外国ほど「選ぶ」という言葉の表現が少ないと感じる。文化として成熟していないのではないか。
  • 自分が選んでいるようで、実は様々な介入や情報の操作によって「選らばさられている」ということはないか?社会システムの暴力性を感じる。

キーワードとして提案されたのは次のようなもの。

  • 社会システムの暴力性
  • 「選択の自由」を行使するための能力
  • 自分を知る
  • 「選択」と「責任」の関係
  • 個人(の選択)と集団(の選択)
  • 消極的選択のおける責任
  • 選択の拡張の可能性


以上のキーワードから立てられた問いは以下。

  1. 不自由な「選択」の拡張の可能性はあるか?
  2. なぜ選択は不自由なものになってしまうのか?
  3. 選択は誰がするのか?
  4. 選択の拡張の可能性があるのに、なぜ選択は不自由(制限される)なものになるのか?
提案された問いについて話しをした結果、選ぶということの拡張性とは何か?、という問いについて解を考えてみることに。

解としては、選択肢を増加させること、丁寧なコミュニケーション、制限を最小限に抑えてえられるもの、とりわけ選択から疎外された人も含め、誰もが自由で平等に尊重される価値観、などというものが提案されました。

ファシリテーターとして感じた感想を述べると、解を出す段階になって、方向が「べき論」になってしまっていると感じました。

一方、問いにある「選択の拡張性」、とりわけ、「選択」とはそもそも何なのか、ということについて、充分に掘り下げることが出来なかった感じます。

ファシリテーターといたしましては、キーワードを出す際に、あるいは問いを立てる段階で、もっと精度を追究して頂くよう働きかけるべきであったなと反省。冒頭のテーマを探っていく段階では、意見や感想が活発に提出されただけに、問いの段階で考察を深められなかったのは残念です。

残念ながら、充分な問いを立てることはできなかったと思っていますが、「選択」ということを考える際のエッセンスは大変豊富に話しがなされ、共有できたと感じます。ファシリテーターとしては、今回の反省、今後のファシリテーションの充実につなげて生きたいと思っています。

参加された皆様、大変お疲れ様でした!



■第6回波止場てつがくカフェ「<選ぶ>ということ」
■日時:7月31日(日)16時30分~
■場所:カフェ・エクレシア銀座店(東京都中央区銀座1-24-5)
■参加費:700円(ワンドリンク付)



※「本レポートは対話の場の主催者として掲載するものですが、報告者の個人的見解を前提としています。種々の制約によりラフな記録と記憶をたよりに作成されているため、現になされた対話の事実と食い違うところがあるかもしれません。何卒ご承知おき頂きたく、お願い申し上げます。